top » 伊能測量応接室 » 測量日記を読み解く

津軽の先端『三厩』を三度も測った。

 『三厩』は、伊能忠敬が測量を始めた当時、津軽藩が蝦夷への玄関口である函館への御役船を運航していた本州の最北端の港であった。従って、蝦夷の測量を目的とした第一次では当然のことながら測量の対象となる。ところが第二次の測量は東日本東側沿岸の測量を目的としてしていたのであるから、既に測量済みであった青森以北の測量は不要であるにも関わらず、再度測量している。多分、子午線一度の距離の正確を期すべく最北端で天測をしたかったのかもしれない。更に、第三次の測量は東日本西側沿岸の測量を目的としてしていたのであるから、当然のことながら三厩の測量は必要であったのであろう。

 『第一次測量』


 寛政12年(1800)5月10日 朝曇、四ツ頃より晴天、夜に入曇る。朝五ッ頃出立。母衣月( ほろづき)にて中食、平館より五里十八町今別村、一里三厩、八ツ半頃に着。宿、工藤忠兵衛、此日平館より奥平部村、砂ケ森村、母衣月村、大泊村へその外村々役人案内。
 北海道が寒くならないうちにと、急ぎに急いで、深川から三厩まで約800キロを21日間で測量している。1日平均40キロ。昔の旅人は40キロ歩いたというが、歩くのと同じ速さで測った。作業中は駆け足だったろう。作業時間は夜明けから4 時ころまで、1日10時間くらいだった。現代の社会生活と較べると超人的といえるだろう。
 同11日 朝より晴天、八ツ半後より曇、夜に入弥曇天。此日東風、(此辺にてはヤマセ風という。)にて渡海ならず。逗留。庄屋書出し、丑寅の風。
 船が出帆できないとき、庄屋が文書を出して、風待ちのお客に告げたという。文例が18日の項に出ている。この頃の船は帆かけ船なので、風がないと動けない。三厩から函館へは西風でないと進めないが、東風なので出られなかった。現代のヨットは逆風でも進めるそうだが、このときは駄目だったらしい。
 同12日 朝より曇天、夜に入少雨降る。東風、同逗留。書出し同風。
 同13日 朝曇、五ツ半頃より少しずつ晴る。此日宇鉄という所迄、足間・方位を測量。同風滞留。夜測量。庄屋書付丑寅風。
 同14日 朝より晴る。無風ゆえ渡海ならず。滞留。夜測量。書付同前。
 同15日 朝より霧深。四ツ後に晴、それより又曇天、九ツ半後より雨、終日ヤマセ風に付逗留。書付子丑の風。
 同16日 昼夜曇天、同前東風にて逗留。書付申酉の風。
 同17日 朝より晴る。風も少し直り候よしにて朝五ツ半頃大船に乗、津軽侯の御船なり。渡海の所風止み又三厩へ帰る。則滞留。
 船に乗り込んで準備したが中止。いらいらしながら風を待ったろう。
 同18日 前夜より朝四ツ後迄大雨、その後小雨、八ツ頃より曇る。同東風にて滞留。書付子丑の風。
 三厩庄屋忠兵衛不出帆書付
 覚
 一. 今日丑寅、又は申酉、子丑の風にて御出帆相成不申候。此段御断奉申上候、以上。
         庄屋忠兵衛印
     五月、(滞留の日に、右の書付を出すよし)

 同19日 朝より晴天、五ツ半頃風少し宣よしに付出帆致候処、戌亥の風強なり。箱館へ着船難成趣にて松前領吉岡という所へ昼九ツ後に着、暫時見合候にも同風に付吉岡に泊。
 風待ち9日目、奥州街道を急ぎに急いで稼いだ日数を全部ふいにしてしまった。忠敬先生日記によると庄屋が気の毒がって風はあまり良くないが、無理して船を出してくれたという。風が変って箱館には難しいので、吉岡( 現在福島町)に着船。風の変わるのを待ったが、変わらないので上陸して宿をとった。
 同20日 同所に朝四ツ頃迄風待致候えども同風致方無し。陸地一里半、福嶋に到て九ツ時止宿

 『第二次測量』


 享和元年(1801)11月3日 前夜より吹続大風、六ッ半頃に中風に成る。則、母衣月村出立。大泊村、山崎村、一本木村、今別村(駅場なり)、浜名村、増川村、三厩村へ九ッ半頃に着。止宿工藤忠兵衛。此日度々雪雹、暮より夜に至て大雨。
 同4日 逗留。朝より雨、又雹。(此日郡蔵、慶助を手分し、夏泊を測らしむ。野辺地にて出会せんと日配りをなして遣ぬ。宗平、秀蔵は三厩より宇鉄村を測る)。此所より江戸浅草暦局迄帰府の先触を出す。並、野辺地迄泊触も出す。

 『第三次測量』


 享和2年(1802)8月18日 朝曇、度々小雨、午前止。風波静なるに付、岡を宇鉄迄測る。六丁間村(家六軒、藤島村之内)、藤嶋村(浜名村持、家七軒)、釜野沢村(家四軒)、下宇鉄村(家七軒)、上宇鉄村(家七軒)、番所前迄測る。それより船に乗り、龍飛岬を測り夜に入て帰る。当所にて弘前領へ急に相回候触を見る。
 同19日 朝晴、白雲おほし。午中太陽を測る。それより晴曇。此日越後国高田 城下迄先触を出す。此夜亦曇る。雲間に測る。

▲このページのトップへ